伏見人
世代を超えた伏見のシンボル。今後の夢も壮大に!
本日の伏見人は、伏見のシンボル『伏見桃山城』さんです!
『伏見桃山城』は、かつて遊園地だったことを知ってる人が少なくなってきましたね。
このお城は、歴史をたどれば、安土桃山時代に豊臣秀吉が建設した「伏見城」に由来します。
そんな『伏見桃山城』さんを、本日この「端午の節句」の日に紹介いたします。
私の主な仕事は、伏見の街を見守ることです。
かつての「伏見城」は、首都としてのシンボル的な意味合いもありましたが、今は『伏見の街のシンボル』として活動しています。
私は、1964年(昭和39)に、近鉄の経営する遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」として生まれました。
それから、59年。
現在は、遊園地もなくなり(2003年閉園)、伏見桃山城運動公園として伏見市民の憩いの場と利用されています。
また、「天守閣」は京都市に寄贈されましたが、耐震構造上の問題で、残念ながら登城ができない状況です。
かつては、天守閣の最上階から伏見の町が一望できました。
遠い昔、豊臣秀吉や徳川家康も、この絶景を見ていたと思うと、すごく歴史を感じます。
ここ伏見は、かつて政権の中枢の地です。
そのため戦国時代がテーマのドラマや映画では、ほとんどの場合「伏見城」が登場します。
そんな伏見には、かつての大名屋敷跡にちなんだ町名が、未だに多く残っています。
今は、当時の面影は全くありませんが、400年以上も昔の事績が町名に残るって、凄いことだと思います。
全国各地の大名が屋敷を構えた伏見。
そんな伏見の町名を後世にも伝えていきたいと思っています。
ここで、少し歴史のお話しを!
そもそも伏見城は、1592年に秀吉の隠居後の住まいとして伏見指月(桃山町泰長老あたり)に建設されました。しかし、慶長伏見地震(1596年9月5日)により、残念ながら倒壊。
その後、1597年に伏見指月から北東約1kmの木幡山に新たに建設されました。その1年後、この伏見城で秀吉は亡くなりました。
それから、徳川家康がここ伏見城で、政務を執っていました。
しかし、関ヶ原の戦いの際に焼失。
焼失した伏見城は1602年ごろ家康によって再建され、1623年に廃城になるまで、伏見城は存在していました。
城跡一帯が開墾され桃の木が植えられて桃山と呼ばれたことから、後に伏見城の通称として桃山城と呼ばれるようになったとのことです。
実は、ここ伏見の地は、意外な事実がたくさんあります。
少し、列挙していきます!
*徳川家康、秀忠、家光の3代にわたり、ここ伏見城で征夷大将軍の宣下を受けた。
(※家光の宣下直後に、伏見城は廃城)
*秀吉より家康の方が、伏見城に長く住んでいた。
*廃城後、伏見城の遺構が各地へ移築されている。
・御香宮神社(伏見区)表門(大手門を移築)
・西本願寺(下京区)唐門
・福山城(広島県福山市)伏見櫓
(※重文・解体修理時に発見された「松ノ丸ノ東やくら」という陰刻により伏見城よりの移築が確定された)
・日暮御殿 - 都久夫須麻神社(滋賀県長浜市・竹生島)本殿(国宝)
*豊臣秀吉は、ここ伏見城で没している。
*伏見市街を流れる濠川は、伏見城の外堀跡を利用して造られた。
皆さん、ご存じでしたか!?
伏見城にまつわる「豆知識」です!
かつての天守閣があった「桃山御陵」ですね。
ここには、明治天皇と昭憲皇太后の陵墓があります。そのため立ち入りや調査などができない状態です。
後、桓武天皇の「柏原陵」ですね。
実はこの桓武天皇の陵墓の位置の正確性については、疑問符が付いている頼しいです。
しかし、現状、宮内庁が治定しているのはこの地です。
それを前提にすると、平安の都を京都に遷都した天皇と、その約1200年後に京都から東京に首都を移した天皇の陵墓が、この桃山の地に集うとは、偶然としても凄いことだと思いますよ!
勿論、天守閣の補強工事をして、登城ができるようになりたいです。
あるいは、天守閣を再建し、市民公園も含めて整備をして、伏見の観光名所としての復活もいいですね!
ただ、費用が莫大にかかってしまうので、取り急ぎ伏見城の「ジオラマ」なんかを造って欲しいですね。
お城を持っている多くの地域では、役所にミニチュアのお城模型を造っていますが、ここ伏見にはありません。
まず、ぜひこれを造って欲しいです!!
今日は、5月5日なので、柏餅!
【編集コメント】
伏見桃山城キャッスルランド!
懐かしですね。
子供の頃に、よく通っていました。
遊園地が廃業になり、もう随分と経ちます。
そんな伏見のシンボルを、今一度、何とか盛り上げていきたいと思います。
(取材 編集長)
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。