伏見人
~ はなもまた 君のためにとさきいでて 世にならひなき 春にあふらし ~
皆さま、新年あけましておめでとうございます。
今年も、『伏見人』をどうぞよろしくお願いいたします。
さて、今年の第1回目の伏見人は「淀殿」に登場していただきます。
幼名は「茶々(ちゃちゃ)」殿。浅井長政とお市の方の長女として生まれ、後に豊臣秀吉と結婚し、秀頼を生むことになります。
伏見の『淀城(淀古城)』に住んでた縁から、通称「淀殿」と呼ばれるようになりました。
そんなご縁で、今回は伏見人に登場していただけることになりました。
私は、戦国時代の真っただ中の1569年、近江国の小谷城(現・滋賀県長浜市)で、三人姉妹の長女として生まれました。真ん中の妹「初」は、京極正次殿と結婚、一番下の妹「江」は、徳川秀忠と結婚しました。
私が、数え年5歳(1573年)のときに、叔父の織田信長に攻められ滅ぼされ、住まいとしていた小谷城が落城。
その後、14歳(1582年)の時に、母の嫁ぎ先である北の庄城(現・福井県福井市)に引っ越したものの、翌年には、またもや攻め滅ぼされ、私の母と、義理の父(柴田勝家)を亡くしました。
それからは、色んなところを転々とし、18歳(1586年)の時に、母と義理の父の仇でもある豊臣秀吉と結婚。21歳(1589年)の時には、秀吉の子「棄」(後の鶴松)を懐妊し、「淀城(淀古城)」に移り住みました。
それが縁で「淀の女房」や、「淀殿」と呼ばれるようになったという次第です。
ちなみに、「棄」は、数え年3歳でこの世を去りました。その後、秀吉が57歳のときに第二子を懐妊し、それが「捨」(後の秀頼)です。この頃は、淀城ではなく、大阪城や伏見城に住んでいました。
私の住んでいた淀城は「伏見城」(1593年)が建設されたときに、廃城となり多くの資材が伏見城の建設に使用されています。
かつての淀城(淀古城)があったと伝わる納所「妙教寺」
私にとっては、淀殿という名前の「淀」は、単なる地名ではありません。
山や川に囲まれ、京と大坂を結ぶ要所であるこの淀の地は、母として、そして一人の女性として生き抜くために与えられた土地でした。
戦国の世に生まれ、城から城へと移る人生のなかで、はじめて「私が守るべき城」となったのが、この淀城です。そこには、わが子と共に生き抜くぞ!という強い意思がありました。
この淀の地で過ごした時間は、そんなに長くはありません。それでも「淀殿」と呼ばれ続けていることが、この場所が私の生き方そのものだったことを物語っています。
子どもを守るために、どこで生きるのかを決める。城も、居場所も、自分で選ぶ。
その覚悟は、時代を越えて、今を生きる伏見の人の心にも静かに響いてくるのではないでしょうか。
私は伏見の中でも、ここ淀が大好きです。
このコーナーでは、淀の知られざる「淀の豆知識」を3つ紹介させていただきます。ピックアップは、私がしましたが、説明が下手なので、まいぷれ編集長さんに委ねます。
よろしくお願いします。
(まいぷれ編集長)
では、ここからは私が説明させていただきます。
少々長いですが、お付き合いください。
宇治川・桂川・木津川の三川が合流するここ淀の地は、古くから水運の要所として栄えてきました。今でも、整備された河川敷に立つと、視界が大きく開け、この地が「城を構えるにふさわしい場所」だったことが実感できます。
昔は、淀城の北側の「巨椋池」の向こうに、伏見城や、東寺の五重塔を見ることができ、西側には、西山や天王山。南側は、男山や石清水八幡宮を臨むことができました。
江戸・日本橋から京・三条大橋までを「東海道五十三次」と呼ばれていますが、更に大阪・高麗橋まで含む「東海道五十七次」という名称も、今、大変注目をあびています。
ちなみに、起点と終点は数に入れませんので、東海道五十三次の1番目の宿場町が「品川宿」。53番目が「大津宿」です。
五十七次のルートは、「大津宿」から京・三条大橋は向かわずに、山科を経由して伏見に入るコースです。「伏見宿」は54番目、そして淀宿(55番目)、枚方宿(56番目)、守口(57番目)と経由して、大阪に入ります。
ここ「伏見宿」は、宿場町というより、城下町、商業都市として発展してきました。
一方「淀宿」は、古代からの交通の要として発展し、後に城下町として整備された都市です。

現代ならこんな感じ!
旬の京野菜の一つである「淀大根」を、ご存知でしょうか?
「淀大根」は、京都南部に位置している淀地区を中心に栽培されるようになったことから、地名にちなんでこのように呼ばれています。一般的には「聖護院大根」とも呼ばれている大根です。
味に関してはまろやかな甘さを持ち、大根特有の辛味や苦みが少ないのが特徴。また、肉質が柔らかいにもかかわらず、煮崩れしにくいため、風呂吹き大根や煮物などといったお料理はもちろん、スープやポトフなどのような洋風なお料理にもおすすめですよ。

淀大根(聖護院大根)
京阪・淀駅の前に、大きな「水車」があります。動いていませんがね。
かつては、淀の地域は「水車」が有名な土地でした。残っている記録によると、戦国時代当時(1586年)、直径8間、約15メートルの大きさの水車があったそうです。
ちなみに、現在、日本最大の水車は「さいたま川の博物館」にあり、直径24.2メートルとのこと。それと比較すると、当時としては、とても大きかったことが分かるのではないでしょうか。
吉田兼好の『徒然草』に、「嵯峨の百姓が水車の故障を伏見の里人に依頼」というくだりがあり、かなり昔から、伏見・淀は水車が有名だったようですね。
では、水車を使って何をしていたのか!?
水運の恵まれたここ淀の地は、良質な「お米」が採れることでも有名でした。そのため、①用水の汲み上げ、②田んぼの水位調整、③精米・脱穀などで利用されていました。この地で採れたお米のことを「淀米」と呼ばれ、当時はとても人気があったそうです。

京阪・淀駅前の水車
京阪・淀駅
次は、淀のおススメスポットを紹介します!
またまた、まいぷれ編集長さんに説明していただきます。
よろしくお願いします。
(まいぷれ編集長)
はいはい。再び、私が説明しますね。
「京都競馬場」は、通称「淀競馬場」、あるいは「淀の競馬場」と呼ばれています。
ここでは、天皇賞(春)や菊花賞、マイルチャンピオンシップなど有名なG1が開催されています。2025年12月1日には、開設100周年を迎えました。
今から50年程前は、京阪「淀駅」から「淀本町商店街」を通過して、競馬場に向かっていました。しかし、今は駅から直接競馬場に行けるようになっています。競馬場の中には多くの飲食店も入っており、淀の街を通らずに1日が過ごせる状態です。
各地から多くの人が淀に訪れるのに、ちょっと残念な感じです。

京都競馬場(淀競馬場)
「淀城跡」は、京阪「淀駅」から歩いて数分。
現在は公園として整備され、ベンチに腰掛ける人や、散歩をする地元の姿が見られる穏やかな空間。しかし、この地はかつて、京都を守る重要な城が置かれた「政(まつりごと)と水運の要衝」でした。
私が住んでいた淀城(古淀城)とは場所が違います。私が住んでいたのは、今の納所あたりで、妙教寺付近でした。
淀城(古淀城)は伏見城の建設と同時に廃城になりましたが、その後、徳川幕府により、現在の地に今の「淀城」が再建(1623年)され、初代城主として「松平定綱」が入城しました。
その数年後の1626年には、江戸時代を通じて最大級のイベント「寛永行幸」が開催され、ここ淀城もその一役を買うことになります。「寛永行幸」とは、徳川将軍が天皇を二条城に招き、もてなしたイベント。それは大坂夏の陣で豊臣家が滅亡してからたった11年後のことで、天皇と将軍の融和と平和の到来を世を知らしめるものでした。
※寛永行幸四百年祭について(京都府)
≫ https://www.pref.kyoto.jp/bunkachoiten/news/kanei.html
ここ淀城の城主を務めたのは譜代大名が中心。頻繁に城主が交代したことからも、幕府にとって淀城が「動かせない要地」だったことがうかがえます。
参考までに、淀城跡は、観光向けに整備されていません。石垣も、とても美しく、絶好の写真スポットなのですが、ちょっと残念な感じです。明治維新後、廃藩置県によって淀城は廃城となり、建物は姿を消しました。
淀城の最後の城主は「稲葉正邦」殿です。公園内には、1885年(明治18年)に稲葉家の祖・稲葉正成(いなばまさしげ)公を祀るために「稲葉神社」が建立されました。
ちなみに、この稲葉正成の継室(後妻)が、あの有名な「春日局」です。その子孫が、1723年から山城淀藩10万石に移封され、淀城の城主として、稲葉氏の統治が幕末まで続くことになります。。
一方、隣の「與杼神社」は、もっと古く960年頃に、水垂村(淀大下津町)に、桂川の水上運輸の守護神として、建立されました。祭神は、神功皇后の妹「豊玉姫命」(淀大明神=與止日女命)です。現在の地には、1902年(明治35年)に、桂川の河川工事に伴い移転されました。
稲葉神社は、旧淀藩主を祀り、いわゆる「藩主の神」。淀城と藩主の記憶を今に伝える、城の神社です。
與杼神社は、淀の産土神で、古くから信仰されている神。淀の人々の暮らしと稲作を守ってきた、民の神社です。
そんな性格の違う神社が、同じ場所に同居しています。
稲葉神社

與杼神社
「淀の河津桜(よどのかわづざくら)」は、淀水路沿いに地域の人々の手で育てられてきた早咲きの桜並木で、春の訪れを一足早く感じられる人気スポットです。今では、多くの人が訪れる京都の桜名所の一つになっています。
≪植樹のはじまり(経緯)≫
淀の河津桜は 2002年に伊豆から譲り受けた2本の河津桜の苗木を淀水路沿いに植えたのが始まりです。そこから地域住民の活動によって植樹が広がっていきました。
初期の植樹は地域住民の自主的な取り組みとして行われ、口コミやSNSを通じて人気が高まりました。その後、地元の自治会などが主体となって活動が組織化され、河津桜は徐々に本数を増やし、約300本(淀水路沿いや周辺含む)までに成長。
≪「淀さくらを育てる会」の活動≫
「淀さくらを育てる会」という市民団体が、植樹・育成管理・地域振興の中心となっています。この団体は 2006年ごろに発足し、地域の複数の愛護協力会と連携して河津桜の育成を続けています。
「淀さくらを育てる会」は、10年以上にわたる緑化活動が評価され、国土交通大臣表彰「みどりの愛護」功労者表彰を受賞しています。地域の桜名所づくりや水路沿いの景観形成、まちおこしにも大きな役割を果たしてきたと京都市からも評価されています。
淀の河津桜
淀の河津桜
淀の河津桜&桃まる君
ありがとうございます!
ここからは、私が説明しますね。
今後の目標ですね。
戦国の混乱の中、私の目標はとてもシンプルだったのかもしれません。それは、わが子・秀頼が、城と人に守られながら成長できる時間を、一日でも長くつくること。当時は、そんな思い(目標)でした。
わが子も含めて、「次の世代に、少しでも穏やかな未来を渡したい」という願いです。
現在は、今の「淀」の地域が、わが子のように愛着があります。そうい意味で、「次の世代に、少しでも穏やかな“淀の”未来を渡したい」。
そんな目標を抱いています。
桂川に架かる淀大橋
豪華な料理よりも、最後に思い浮かべたのは、城での静かな食事でした。
三つの川に囲まれた淀の、澄んだ水。
その水で炊いたごはんを、大切な人と同じ膳で口にする。
それは、戦国の世で何よりも贅沢な時間でした。
大切な人とは、母の市でも、夫の秀吉でもありません。
わが子・秀頼です。
特別な食事ではなく、普段から食べていた「白いごはん」そのものが、最後の晩餐で食したい食べ物です。
【編集コメント】
今回の取材にあたり、淀君の写真や銅像を調べてみましたが、これがほとんどありませんでした。
見つけられた肖像画は、奈良県立美術館の「伝 淀殿画像 (でん よどどのがぞう)」のみ。しかも、伝えられているだけで、本人かどうか確証が得られていないそうです。
また、銅像についても、道の駅「浅井三姉妹の郷」(滋賀県長浜市)にある『お市の方と浅井三姉妹』像のみです。
淀殿の呼称の由来となった「伏見・淀」にも、何もありません。
どなたか、淀殿の情報を下さい!!
確かに、日本三大悪女に抜擢されているのも原因かもですね。
ちなみに、日本三大悪女とは、北条政子(源頼朝の妻)、日野富子(足利義政の妻)、淀殿(茶々、豊臣秀吉の側室)の3人です。
(取材 編集長)
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。