まいぷれ伏見編集部スタッフの
なるさんです!
「1467年 人の世、むなし、応仁の乱」
この年号の覚え方、一度聞くと忘れることはないですね。
京都は壊滅的被害を受け、全国が戦国時代へ突入します。
これ以後は著名武将の活動に目が行ってしまいますが、はたして京都はどうなったのでしょうか。
伏見区日野
藤原北家の一族、日野家ゆかりの地です。菩提寺は法界寺(真言宗醍醐寺派)で
「日野薬師」と呼ばれています。
あの
親鸞上人も日野家出身、伏見生まれです!
鎌倉末期、日野俊基と日野資朝(すけとも)は後醍醐天皇の指示で討幕への活動をしますが、幕府にバレてしまいました。(1324年 正中の変)
そして南北朝の動乱、室町幕府の成立。
足利尊氏が建武式目を定め、後醍醐天皇は吉野に逃れます。
清和源氏の流れを汲む足利将軍家は、公家の日野家と縁戚になります。
3代義満の妻、日野業子(なりこ)と康子。4代義持の妻は康子の妹、栄子。
6代義教の妻は宗子と重子。
これ、
まるで平安時代と変わりませんねえ。
そして8代義政の妻、日野富子。
息子を後継将軍にさせたい思いから、義尚の後見人となった
西陣の西軍、山名宗全と東軍、細川勝元との全面抗戦が勃発します。
富子は幕府財政の再建に努め、富の蓄積には手段を選ばず「悪女」と評されますが、息子を守り、動乱の中で幕府の権威を支えた実力ある女性であったようです。
関所を新たに設けて課税。米の買い占めによる米相場への介入。
勘合貿易や土倉(どそう)・酒屋(さかや)へ課税。
中世京都では土倉、酒屋は単なる倉庫業や酒造業ではなく、金融業者だったのです。
その後の戦国時代の京都での生活状況です。
農民や町人は年貢や税金の支払いを借金で対応します。前借りで税を納め、利子付きで返済するシステムにおかれていたのです。
戦乱や災害で返済は難しく、「質入れ」の奪回や「契約証書」の焼却のために、
徳政一揆(借金帳消し要求)を一致団結で決行!
幕府も徳政令を出したとはいえ、借金帳消しの一部
(分一銭)を税金として収めたら、認めるよ、という具合でした。
そしてついに応仁の乱以上の戦乱が再び勃発します。1536年の
天文法華の乱です。
法華宗徒の多くが
町衆や商人として自治権を持つようになり、既存の寺社勢力と衝突したのです。
まず山科の本願寺(一向宗)門徒と法華宗徒が対立。続いて比叡山延暦寺(天台宗)の僧兵が法華宗の21の本山を焼払います。
京都の町の大部分が焼失して、町衆の自治や経済も大きく衰退してしまったのでした。
1568年、織田信長は15代将軍足利義昭を奉じて京都へ進軍し、ついに入京を果たしました。
そして1571年、比叡山焼き討ちを決行。
1587年に豊臣秀吉が
「聚楽第」を平安宮跡に建設し、京都改造と復興がスタートします。
日野家の衰退とともに法界寺もかつての壮大さはなくなり
藤原時代の面影がある阿弥陀堂と薬師堂のみが、山あいの静かな地にひっそり存続しています。
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伏見カメラマンの写真撮影
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法界寺
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