しろまち伏見
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~ 洛外の寛永行幸/家光の淀、尾張・紀州藩の伏見 ~

2026年は、江戸時代初期に行われた「寛永行幸(かんえいぎょうこう)」から400年となる節目の年です。京都ではさまざまな記念イベントが開催されており、特に12月6日(日)に開催される、行幸行列を再現する時代行列は必見です。
さて、今回は「京都府立京都学・歴彩館」で開催されている特別展「寛永行幸四百年記念-洛外の寛永行幸 家光の淀、尾張・紀伊藩の伏見-」を見学してきました。
寛永行幸といえば、どうしても洛中の出来事と思われがちですが、実は、ここ伏見区も深く関わっています。意外に思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。ぜひ、最後までご覧ください。
寛永3年(1626年)、後水尾天皇が徳川幕府の招きにより二条城を訪れた「寛永行幸」。将軍・徳川家光の時代に行われた、徳川幕府の権威を示すうえでも重要な行事です。盛大な饗応や芸能などが催され、朝廷と幕府の関係を考えるうえでも注目されています。
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今回の特別展で注目したいのは、二条城などの洛中だけでなく、伏見や淀にもスポットが当てられていることです。当時の伏見には尾張徳川家・紀伊徳川家の藩邸が置かれ、淀城は将軍・徳川家光の宿所となりました。普段、私たちが暮らしている伏見のまちも、400年前の歴史とつながっているのです。
寛永行幸に際して、将軍・徳川家光の宿所として利用されました。
寛永行幸では、尾張藩邸には尾張藩主・徳川義直が、紀州藩邸には紀州藩主・徳川頼宣が、それぞれ宿所として滞在しました。
会場では、伏見区に関連するさまざまな資料や展示物が紹介されていました。ここでは、特に印象に残ったものをご紹介します。これらの展示を通じて、寛永行幸と伏見・淀の関わりについて知ることができました。
淀城といえば、豊臣秀吉が淀殿に与えた城として知られています。しかし、この城(淀古城)は後に廃城となりました。その後、元和9年(1623年)、徳川家康の甥にあたる松平定綱によって新たな淀城の築城が始まり、その2年後の寛永2年(1625年)に完成しました。
寛永行幸では、将軍・徳川家光の宿所として利用されました。この絵図は、家光が滞在した時期から数年後の城下の様子を描いたものと考えられています。
当進軒文庫旧蔵絵図 淀総絵図(江戸時代中期)
京都学・歴採館蔵
田中家文書・甲 淀城絵図(江戸時代前期)
京都学・歴採館蔵
この屏風は、月桂冠の本店、北蔵、昭和蔵などを、吉田初三郎が昭和3年(1928年)に描いたものです。この景観図には、広大な尾張藩邸と紀州藩邸も描かれています。尾張藩邸は現在の京都市立伏見板橋小学校周辺、紀州藩邸は現在の月桂冠・昭和蔵周辺にあたります。
吉田初三郎「伏見本件景観図」(昭和3年(1928))
月桂冠株式会社蔵
吉田初三郎「伏見本件景観図」(昭和3年(1928))
月桂冠株式会社蔵
吉田初三郎「伏見本件景観図」(昭和3年(1928))
月桂冠株式会社蔵
この立像は、尾張徳川家ゆかりの清涼院に伝わる、尾張藩主・徳川義直の立像とされています。義直は、慶長12年(1607年)まで伏見に滞在したと伝えられています。また、この界隈には、義直の幼名に由来するとされる「深草大亀谷五郎太町」という地名も残っています。ちなみに、義直の母は「於亀」です。
徳川義直公立像(江戸時代)
清涼院蔵
御香宮神社の居間に飾られていたものです。江戸時代中期の作と伝わっています。当時の伏見の景観が良く分かります。
往古御在城之屋鋪 并 旧地之分(江戸時代中期)
御香宮神社蔵
この木札は、紀州藩から御香宮神社へ白銀が寄進されたことを示す資料です。
紀州大納言様白銀御寄附木札(江戸時代)
御香宮神社蔵
伏見といえば、豊臣秀吉が築いた伏見城や、酒蔵のまちとして知られています。しかし、その歴史は戦国時代だけではありません。江戸時代の政治や文化とも深く関わってきました。寛永行幸から400年。この機会に、伏見・淀の歴史をあらためて見つめ直してみてはいかがでしょうか。
【特別展の開催情報】
- 展覧会名:寛永行幸四百年記念-洛外の寛永行幸 家光の淀、尾張・紀伊藩の伏見-
- 会 場:京都府立京都学・歴彩館 1階 展示室
- 開催期間:2026年9月12日(土)~11月8日(日)※休館日を除く
※写真の掲載などの掲載は、京都府立京都学・歴彩館の許可を得ております。
※取材は、2026年10月10日に実施。
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。