しろまち伏見
(更新)
~伏見奉行と庄屋文書に残る“もうひとつの伏見” ~

こんにちは。
伏見の話題を探しながら、気の向くままにまち歩きを楽しんでいるキュレーターです。
先日、歴史学者・磯田道史氏の講演会に参加する機会がありました。テーマは「『食べる』から見た伏見の歴史」。
もちろん講演内容そのものをご紹介することは控えますが、一人の参加者として、伏見という町を改めて見つめ直すきっかけをいただいたように感じています。
普段、私たちは伏見を酒どころ、城下町、港町といったイメージで捉えることが多いですが、「食」という身近な切り口から歴史を考えることで、これまでとは違った景色が見えてくることに驚かされました。
歴史は遠い昔の出来事ではなく、日々の暮らしや人々の営みの積み重ね。その視点を持つだけで、いつもの伏見の町並みも少し違って見えてくるような気がします。
今回は講演の内容ではなく、講演をきっかけに私自身が感じたことや、その後あらためて調べてみた伏見の歴史について、少し書いてみたいと思います。
歴史研究というと、出来事を順に追っていくものという印象がありますが、実際の研究はその逆で、「問い」から始まるそうです。
・これまでに何が分かっているのか
・どこがまだ分かっていないのか
・そのうえで「自分は何を問い直すのか」
つまり歴史とは、「なぜそれが起きたのか」をどう設定するかが核心。
5W1Hで整理すれば、
・いつ、どこで、誰が、何をしたのか
・どのように行われたのか
・そして「なぜそれが必要だったのか」
特にこの「なぜ」は最も重要であり、同時に最も難しい部分でもあります。場合によっては論文では意図的に避けられることさえある、という話も印象的でした。
話題は伏見へと移ります。
江戸時代の伏見には、幕府直属の行政機関として「伏見奉行」が置かれていました。単なる地方役人ではなく、
・町や村の統治
・年貢や訴訟の管理
・宇治川・淀川の水運監視
・京都周辺の治安維持
といった広範な役割を担う、いわば地域支配の中枢でした。
その重要性から、時には大名クラスの人物が就任することもあり、伏見が「京都と大坂をつなぐ政治・経済の結節点」であったことがうかがえます。
伏見奉行所は現在の伏見区西奉行町付近にあったとされ、現在は京都市営桃陵団地となり、わずかな石碑のみがその痕跡を残しています。
特に興味深かったのは、当時の行政において「接待」が単なる慣習ではなく、政治の機能の一部として存在していた点です。
伏見の庄屋・吉村家に伝わる古文書(吉村家文書)には、奉行所とのやり取りや地域運営の記録が残されています。
そこから見えてくるのは、
・役人との関係構築
・饗応を通じた調整
・制度の外側で動く実務の世界
といった、公式記録には現れにくい“現場のリアル”です。
「食べる」「もてなす」という行為が、行政運営そのものと密接に結びついていたことが分かります。
※「伏見の庄屋・吉村家に伝わる古文書(吉村家文書)」は、地域社会の実態を知るうえで重要な史料です。
庄屋は、年貢の取りまとめや村の運営、領主との連絡役など、地域と行政のあいだをつなぐ役割を担っていました。そのため、吉村家に残された記録には、制度としての仕組みだけでなく、当時の人々の暮らしや地域運営の具体的な様子が刻まれています。表に出る歴史ではなく、日々のやり取りや調整の積み重ね。その蓄積から、伏見という町がどのように成り立っていたのかを読み解くことができます。
伏見の歴史には、権力と庶民生活の距離がそのまま刻まれています。たとえば小堀政方の時代には、財政難の中で過酷な御用金徴収が行われ、地域の人々が奉行所へ直訴する事態も起こりました。
天保の飢饉などの社会不安が重なる中、権力側の場では接待や儀礼が維持されていたという記録も残されています。この対比は、当時の社会構造を理解するうえで象徴的です。
なお、こうした経緯ののち、明治期には伏見義民の慰霊碑が建てられ、現在も「伏見義民祭」としてその記憶が受け継がれています。
※「小堀政方(1740~1802)」は、茶人・作庭家として知られる小堀遠州を祖とする小堀家の子孫。江戸時代に伏見奉行を務めましたが、天明の飢饉の際に町民へ過重な負担を強いたとして、直訴の末に罷免されました。この出来事は「伏見義民」の歴史として、今も伏見に受け継がれています。
現代では、行政と民間の関係は大きく変化しました。
・軽微な飲食:社会通念の範囲
・利害関係のある接待:原則禁止
・過度な接待:法的リスク
かつての「関係性で動く政治」から、現在は「透明性と公正性を前提とする政治」へと大きく転換しています。
現代の行政における「接待」と法的リスク-
現代では、行政の公正性・透明性を確保するため、国家公務員倫理法や各自治体の倫理規程などにより、利害関係者からの接待や贈答は厳しく制限されています。また、職務に関する利益供与は、内容によっては刑法上の収賄罪・贈賄罪に問われる可能性もあります。
伏見の特徴は、単一の歴史で説明できない“重層性”にあります。
・伏見奉行所に象徴される政治の記憶
・庄屋文書に残る生活と実務
・酒造文化が支えた経済の力
・港町・宿場町としての交通の要衝性
これらが幾重にも重なり合い、現在の伏見という町を形づくっています。
伏見にはまた、文化的な層も存在します。
茶人・作庭家として知られる小堀遠州ゆかりの意匠は、御香宮神社の庭園などにもその影響が見られ、政治・文化・美意識が交差する時代の痕跡を感じさせます。
伏見は後に鳥羽・伏見の戦いの舞台ともなり、長く「政治と軍事の境界」に立ち続けた場所でもありました。
※「小堀遠州(1579~1647)」は、江戸時代初期を代表する茶人・作庭家であり、大名としても活躍した人物です。伏見ともゆかりが深く、御香宮神社には小堀遠州ゆかりと伝わる石庭が残されています。
伏見の歴史は、資料の中だけに閉じているわけではありません。
・酒蔵が並ぶ町並み
・老舗の和菓子店
・寺社に残る石碑や庭園
・川と港の記憶
それらは今も日常の風景の中に溶け込み、気づけば“過去の層”と重なっています。
「食べる」というごく日常的な行為から、伏見という町の歴史構造が立ち上がってくる。
庄屋の記録、奉行所の政治、庶民の生活。
それぞれが別々に存在していたのではなく、むしろ互いに絡み合いながら伏見という都市を形づくってきました。
そしてその痕跡は、今も街を歩くことで静かに立ち上がってきます。
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。