しろまち伏見
(更新)
~ Tips for Walking Through Fushimi in the Kan’ei Era ~

こんにちは。伏見のネタを拾いながら、気の向くままにまちを歩いているキュレーターです。
先日、「京阪沿線魅力再発見 ぶらり街道めぐり~寛永と東海道編~」の講演「寛永年間の伏見について」(講師:若林正博さん)を聞いてきました。
話を聞き終えたあと、ふといつもの道を歩きたくなりました。
それも、“いまの伏見”ではなく、“寛永の伏見”を重ねながら。
伏見という場所は、一言では収まらない。
昭和6年(1931年)まで独立した都市だったという事実もありますが、それ以上に、歴史の中での立ち位置が独特です。
江戸は徳川家康、
京都は“都”、
大坂は豊臣秀吉。
そんな整理の中で、伏見はそのどこにも収まりきらない。
けれど実際には、秀吉晩年の政庁であり、家康の拠点でもありました。
家康は将軍在位802日のうち462日を伏見で過ごし、征夷大将軍の宣下も伏見で受けています。
「天下人の城下町・伏見」という輪郭が、ここでくっきり見えてきます。
《メモ》
・江戸 → 実は伏見が起点ともいえる存在
・京都 → 一時期、伏見から統制されていた
・大坂 → 秀吉晩年の拠点は伏見
元和の廃城で役目を終えた——そう思いがちな伏見ですが、寛永期には別の顔を持ちます。
尾張・紀伊の藩邸が置かれ、政治と社交の舞台として機能していました。
寛永3年(1626年)の行幸では、尾張の徳川義直、紀伊の徳川頼宣が伏見藩邸を拠点に、公家や門跡を日替わりで饗応していたといいます。
いま歩いている何気ない通りが、かつてはそんな舞台だった。
そう思うだけで、風景に少し奥行きが出てきます。
なお、伏見城の遺構「松ノ丸」は、のちに福山城へ移築されています。
《メモ》
御三家の藩祖は、実は3人とも伏見生まれ
・尾張藩 徳川義直(1600年)
・紀伊藩 徳川頼宣(1602年)
・水戸藩 徳川頼房(1603年)
講演で印象的だったのは、伏見の“振れ幅”でした。
延宝5年(1677年)には「むじな・きつねのふしど」とまで書かれた荒廃した城下町。
それが宝永3年(1706年)には、「桃の名所」と称えられる。
旧藩邸の跡地に桃が植えられ、「桃山」という名が定着していく流れは、まちの再生の物語のようです。
そして、その先もまた面白い。
桃畑はやがて、茶畑へと変わっていきます。
《メモ》
・現在、桃畑は残っていない
・桃畑 → 茶畑へ転換
・主な茶畑エリア
- 桃山御陵参道周辺
- 伏見桃山城運動公園周辺
- 大亀谷エリア
京町通や大手筋通。
御香宮や桃山のあたり。
見慣れた景色に、「寛永の伏見」を重ねてみる。
徳川家康=江戸、豊臣秀吉=大坂。
そこに「伏見」という拠点を加えるだけで、歴史の見え方は少し変わります。
そして、京都でさえ一時的に伏見の影響下にあった時代があること。
そんな背景を知って歩くだけで、いつもの道が少しだけ立体的になる。
講演を聞いたあと、そんな歩き方がしっくりきました。
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。